極限まで投稿するハードルを下げた日記

極限まで投稿するハードルが下がった日記なので未完成の記事とかもバンバン上がります

始めまして

このブログは、私が現在育休中で論理学の本とかを読んだら文章を書きたくなった、という事情から作りました

 

まずは私のプロフィールから

性別 男性

職業 都道府県庁職員

年齢 30歳中盤

家族構成 妻、息子の3人暮らし

 

 

さて、このブログのコンセプトは「極限まで投稿するハードルを下げる」ということです

これをどういう事か説明します。

 

通常のブログは人様の目に触れる(はず)なので、記事を形にしてある程度整えてから公開すると思います。

しかしこのブログは違います。未完成だろうが途中で飽きたものだろうがバンバン投稿します。投稿した後に不具合があればバンバン修正します。うんこをたくさんインターネットの海に放り投げますし、吐いた唾も飲みますしなんなら吐き直します。

また1行しかない記事だって投稿します。

 

なぜこのコンセプトなのかと申し上げますと、一言で言うと「習慣化」させるためです。

私は色んな難関資格に挑戦してことごとく試験を受けるまで至らず諦めているという輝かしい経歴の持ち主です。

そのスーパーエリートの私が勉強をする際に柱にしている考え方が2つあります

1.取り掛かるハードルを下げる

2.薄い理解で繰り返しまくる

 

途中で飽きました.さようなら

 

 

私のアンガーマネジメント

お久しぶりです。誰も見てないと思うけど更新します。

 

 

俺の上司(係長)が本当にマジでクソゴミクズで、毎日100回くらいこいつを殺してやろうかと思う日々を過ごしていた。

 

とにかくこいつが何もできない

•管理職なのに調整能力皆無

(他の係からの連絡を部下に伝え忘れる。

うちの係で何か事業をする時に他の係に対して全く連絡調整しない。(そもそもその発想がない

•実務もまるでダメ

(職員名簿を作ったら去年異動したはずの職員が何人も入っていた

•常識がない

(俺とこいつ2人しか係で出勤していない日に、普通に当日申請で午後休を取って帰ったりする)

•業務の目的を理解せず表面的な作業に終始している(確認と修正が必要な作業があったのに確認だけして修正してなかった

•主体性がない

(いつも「これ俺の仕事かなぁ」みたいな独り言言ってる。殺すぞ

•なにかトラブルがあると固まって動けなくなる。

•それでボーナスは100万円を超えている。

 

本当に殺意しか湧かない。

なんども「こういう時はこういうことをしないといけないんですよ。ちゃんとやってください」というお願いを俺が半ギレでしている。

 

こいつのせいで本当にストレスが溜まっていて最近本当に精神がクソやばかった

 

 

このままだとマジで家庭内にも影響が出ると思ったので、怒りをコントロールするために色々考えた。

それで思いついた方法が意外と自分に合っていたので、ここに残しておこうと思う。

 

まず俺は怒りの要素を分解してみた。

その結果、怒りは

①相手が「こうあるべき」という姿(以後「理想像」と呼ぶ)から逸脱してムカつく

②実害を被ってムカつく

と2つの要素に起因して起こることが多いと感じた。

 

そして怒りを鎮める対処法は、感じている怒りを①と②の要素に分解して、①を無視して②についてだけ怒れば良い、という考え方を取ることだ。後述するが①について怒っても全く無益で、精神をすり減らすだけになるのだ。逆に②が多いのであれば正当な怒りなのでキレて良い。

 

たとえば上記のクソ上司(以下、「チンパンジー」と呼ぶ)が、「俺が引き継ぎ書を作って置いて育休を取ったのに、復帰してみたら業務をいくつか漏らして3ヶ月経過していた」(実話)というエピソードを考えてみよう。

 

当然当時俺はブチギレて、チンパンジーに全部怠っていた業務をやらせた。

 

ここでの怒りは

①について

「係長レベルの人間であれば、当然引き継ぎ書に書いてあることは完遂できてあたりまえ」という

理想像から、チンパンジーがかけ離れていたこと

(オメー係長なのに何やってるんだよ殺すぞ、みたいな怒り

 

②については

チンパンジーが漏らしていた仕事を自分で全部やったので、特に生じていない。

 

どうだろうか?

自分が被害を受けていないのに、めっちゃ怒っていて不毛ではないだろうか。

逆にこれでチンパンジーが漏らした業務を全部自分がやることになって残業をさせられた、ということであれば②の実害を被っているのでキレることは正当だろう。

先述したチンパンジーのむかつくところリストの中で「それでいてボーナスが100万」というところも、俺に対してはなんの被害もないのに「この業務量で100万円ももらうべきではない」という①のあるべき理想像から逸脱している姿にムカついていることが伺える

 

このように意外と自分が被害を受けていないのに、理想像から相手がずれていて怒っているというケースは意外と多いのではないだろうか?

 

 

例が1つだとピンとこないかもしれないのでいくつか他に例を挙げておこう

 

例1.自転車で車道を走っていたら、こっちの車線にむこうから自転車が突っ込んできた

①理想からの逸脱

 自転車は左側通行でこっちがルールを守っているのだから、向こうは不当なことをしている。許せねぇ。向かうが道を譲れや

 

②実害

 向こうの自転車が通れるようにちょっとどいてあげた

 

例2.ホームで電車を待つ列に並んでいたら横入りされた

①理想からの逸脱

先に来て並んでいる人から先に電車にはいるべき。こいつは不当なことをしている。許せない

②実害

1人分順番が後ろになる

 

例3.疲れて帰って来たら、子供の世話をさせられた

①理想からの逸脱

 俺は疲れてるのだから、おれは子供の世話は免除されるべき。なぜ俺がやらないといけないのか

②実害

 数分子供の世話をして疲れた

 

 

どうだろうか。

意外と実害を考えてみると少ないのではないだろうか。

この考え方を実践してから割と精神が安定するようになったので、皆様も暇ならぜひ試してみてください。

ただ、意外と考え方を変えるっていうのは難しくて、頭ではわかっていてもなかなか考えを切り替えられないものだ。

俺もこういう考え方をしようと思ってから実際にできるようになるまでに1週間くらいかかったので、気長にやってみてください

 

妻がスーパー銭湯に行った話

今日妻が近所のスーパー銭湯に出かけて行った。妊娠して以来初めてのことになる。

妻が妊娠中、出産したら酒が飲みたいであるとか、スーパー銭湯に行きたいと言っていたので、それがようやく叶ってよかったねぇという思っている。ある節目を迎えたなぁという感動が自分の中にあるのだ。

どうも自分は妻に課せられていた制限が解除された時に、妻がある段階をやり終えたということで、嬉しさや感動を大きく覚えるようだということに気がづいた。

 

妊娠期間 → 出産 → 育児 というプロセスは制限との戦いとも言えると思っている。①体へのダメージは当然として、②飲食物の制限や③行動の制限など色々な制限が課される。

①はつわりやその他の体に与える諸症状など、②はスポーツや入浴その他の諸活動が制限されることなど、③は胎児に悪影響なカフェインやアルコールなどを控えることなどである。

 

自分の中にはこれらの制限の象徴として、刺身、スーパー銭湯、お酒、この3つがある。

よく妻が妊娠中に欲していたが我慢していたものだからだ。(酒はそうでもないけど)

 

さて、①②③という観点を説明しやすいように、上記の妊娠〜育児というプロセスをもう少し細かく4つに分けることにする(今回は妊娠出産等の母体に対する負担等の観点から話したいので、育児自体の負担については、簡単のため無視する)。

1.出産までの期間

2.出産から産後1ヶ月まで

3.出産1月後から授乳が終わるまで

4.それ以降

これらの期間ごとにそれぞれ上に挙げた、刺身、スーパー銭湯、お酒が対応して象徴として現れるのである。

 

1.出産までの期間

当然①②③の制限が高レベルでかかる。

特に②については、アルコールやカフェインなど全面的に体に有害なものだけでなく、刺身などの体に良いものも「胎児に悪影響だから」と積極的に制限される。妻とよくこの時期に刺身食いてえなと嘆いていたのを思い出す。③も妊娠後期においては強く制限されることは言うまでもないだろう

 

2.出産から産後1ヶ月まで

自分の中でのこの時期を象徴するのは「刺身」である。

出産は女性の体に著しいダメージを与える。一説によると交通事故と同様のダメージがかかるとも言われているそうだ。何の量をもって交通事故と同等とみなしているのかは疑問だが、それだけ壮絶であると言うことは疑いようもないだろう。

その療養に1ヶ月程度を要するということだからか、通常出産婦は1月程度(子の1ヶ月検診があるまで)は外出等は制限される。出産が妊娠という戦いのゴールではないだということをまざまざと実感させられたことを覚えている。

ではこの段階での①〜③の状況はどうだろうか。

①については徐々に減少していくとはいえ、1と同程度もしくはより高い負荷がかかっていると言えるだろう。妻も後遺症のようなものが多く残っていたと思う。

②ついては一定の制限が解除されると言っていいだろう。

 母乳での育児を前提とすると、全面的に体に悪いもの(カフェイン、アルコールなど)でなければ、摂取が可能になると言っていいだろう(医者じゃないので正しいことはわからないが)。つまり刺身が食べられるのだ!!出産後妻が退院して来た初日に寿司を頼んで、おいしいねぇと2人で感動したのを覚えている(義母もいたから実際は3人だが)。

③については、より厳しくなっていると言っていいだろう

 交通事故にあった後と同様なのだから、風呂にも入れないし外出もできない。この時が一番行動の制限が大きいかもしれない。(そうでないかもしれない)。いずれにしても制限が大きいという状況であることだけは間違いなだろう

 

3.産後1ヶ月から授乳が終わるまで

この時期の象徴としては「スーパー銭湯」がある。

①については、悪露などの症状があるとはいえ、ある程度解放されていると言っていいだろう

②については母乳育児をしているのであれば、2と状況は変わらないだろう。まだ酒やコーヒーは飲めない。

③についても(育児という制限はあるが)、ほぼ解放されていると言っていいだろう。

だからこの段階にしてようやくスーパー銭湯に行けるのである!

言い換えると妻がスーパー銭湯に行くということは、妊娠期間からの長い期間を経て、①と③の制限に打ち勝ったということに他ならない。自分にとって妻がそれをやり切ったと感じる客観的なイベントが、妊娠期から行きたいと言って長く時間が経っていたスーパー銭湯なのである。

 

過去の営みが積み上がったと実感する瞬間は、積み上げている瞬間ではなく、それが積み上がったと感じさせる節目を迎えた時だと思う。

例えば日々育児をしていてもその積み上げを意識することはないだろうが、子供が卒業式を迎えた日には、今まで自分が積み上げてきたものを実感することだろう(子供の卒業式に出たことないけど)

何を言っているかよくわからなくなってきたが、要はスーパー銭湯は卒業式なのである(カブはふたなり理論)

 

妊娠から出産までの期間も大変であることは言うまでもないが、2の出産直後の時期もそれと同様にきつい時期であると思う。これが終わればようやく妊婦からの一区切り、と言う印象を自分は持っている。

だから、妻がスーパー銭湯に行くというイベントは本当に自分にとっては、頑張ってくれた妻が、辛い時期が解放された(辛いことばかりではなかったと思うが)象徴と言っていいものなのである。

だからこそ妻には今日こそ、「今まで本当にお疲れ様。本当にありがとう」と伝えたい。

 

4.それ以降(授乳終了後)

この時期を象徴するのが「お酒」である

こうなってようやく①〜③の制約から解放されたと言っていいだろう.

よってアルコールも解禁だ!

実はもううちは諸事情から母乳はやめ、完全ミルクに切り替えているので、この段階にいるのである。ただ、まだ妻は酒を飲んでいない.

妻と一緒に乾杯をするときこそ、本当の意味での卒業式になるのだろう

まったく急ぐ気はないが、自分がその時を大事に思っているということは、この記事を妻が読んで妻がわかってくれたら嬉しいと思う。

 

 

コーして俺は、妻のいない隙にリビングの77インチのクソデカテレビでオナニーを堪能した(もちろんインタビューによって情報の特別性を高めて効用を高めたことは言うまでもない

先生から「じゃあ俺が死ねっていったら死ぬのか?」と言われた時の反論

こんにちは〜〜!!

良い子のみんな元気〜〜??

 

お兄さんはね〜〜〜

 

元気じゃないです

さっきコーヒーメーカーの使い方を盛大に失敗して(まじでありえない原因でのミス)、

コーヒーメーカーをぶっ壊しかけた挙句、それに起因する心身的ダメージにより、「鋼の自己肯定感を作る」みたいな本を読んで身につけることに成功した(と思っていた)鋼(だと思っていた)の自己肯定感が一瞬で吹き飛んだよ〜〜〜

 

人は簡単には変われないね〜クソが

 

さて、今週も始まりました、児童わくわく相談コーナーです。

早速お便りを読んでいきましょう

ペンネーム「アジェンダ先行の動的フレームワークによるコミットメントでコンセンサスを勝ち取る」(8歳)さんからです。名前うざいね!

 

「この前先生から、『シリコンバレー思考の活用で、バイアスを壊すための革新的なモデルを作って』って言われたんです

 だから利用可能性ヒューリスティックを利用したシンプソンパラックスモデルでプレゼンをしたんですけど、全然クライアントからコンセンサスを得られなくて、先生に怒られちゃったんです。

 『先生がシリコンバレー思考を使えって言ったから利用可能性ヒューリスティック的観点からアプローチしたんです』って先生に伝えたら、『俺がやれっていったからやったのか。だったら俺が死ねっていったら死ぬのか?』って言われて言い返せなくて悔しかったです。なんて言い返せばよかったですか」

 

はい。いい質問ですね!あとめっちゃやばい学校ですね!

アジェンダ先行の動的フレームワークによるコミットメントでコンセンサスを勝ち取るちゃんが通っている学校は公立学校かな?

だったら先生は地方公務員だから、地方公務員法の考え方で反論すると納得してもらえると思うよ!

地方公務員法の第32条

「職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」

という規定があるよ!

だから、先生みたいな地方公務員は①法律などのルールと②上司の命令、この2つに従わないといけないというルールなんだ!今回は②を使うよ!

例えば先生だったら、上司である教頭先生や校長先生の命令に従わないといけないんだ!

 

これはなんでこういるルールが決まっているかというと、学校というのは生徒たちみんなが楽しく過ごす場じゃないといけないよね!

でも先生が、教頭先生や校長先生から指示されたことがいちいち正しいか考えてたり反論したりしてると、仕事が滞って学校がうまく回らなくなるよね?そうなるとみんなが楽しく過ごすっていう学校の一番大事にしないといけない目的が果たせなくなるんだ。

 

だから、教頭先生や校長先生が先生に対して出した命令は、基本的には全部従いなさい、ということを取り決めたんだね。

 

でも例えば教頭先生が「校長先生がうざいから殴ってきて」という命令を先生に出したらどうだろう?

これに従うとスカッとはするけど、先生が逮捕されちゃうし校長先生もかわいそうだよね?

だからこういう明らかにイカれた命令が来た場合は、イカれてるって言われた方もわかるし、従わなくていいんだ!

 

だから、「上司から命令されたら、みんなが楽しく過ごせる学校にするため従う義務がある。でも明らかにイカれてたら無視していい」ということだね。

 

このルールは先生と生徒という関係には直接適用できないんだけど、状況が似ているから考え方を借りてくることができるんだ!

 

教室で先生が指示したい内容に、生徒がいちいち反論してたらどうかな?

授業が進まなくなるね。そうするとやっぱりみんなが楽しく過ごすっていう学校の一番大事な目的が果たせなくなるよね!

だからみんなのためにも先生の指示には従わないとダメということになるね!

 

つまり先生に何て反論すればいいかというと

・先生が生徒に対して出す指示は、地方公務員法32条における上司が出す命令と類似性が非常に高い。よって同条の考え方を準用する余地がある。

・同条の考え方を準用すると、先生からの指示については安定的な授業等の運営を図るため当然に従う義務があるが、明らかに無効な命令には従う必要はない。

・「シリコンバレー的思考を駆使する」という指示は無効な指示ではないが、「死ね」は明らかに無効な指示である。よって前者に従う義務があるが、後者には従う義務はない。

・ところで「Aという命令に従ったんだから、Bという命令にも従わないといけない」という論理は、最低でもAとBが同質である必要がある。

・「シリコンバレー的思考を駆使する」という指示は従うべき指示で、「死ね」という指示は無効な指示で従う必要はない。これら二つの指示は同質ではないため、同質であることを前提としている先生の論理は破綻している。

 

ということになるね!

アジェンダ先行の動的フレームワークによるコミットメントでコンセンサスを勝ち取るちゃん、頑張って先生にお話ししてみてね!

 

じゃあ今週はここまで!

じゃあね!

 

子育てから学ぶことが子育て以外にもめっちゃ役に立つという話

今我が家には生まれて2ヶ月になるベビーがいる。

まじでめちゃくちゃ可愛い。

 

出産したての我が子を見た時も「こんなに可愛いのか…」と感動したものだが、

最近は成長してより一層可愛くなっている。

 

なるべくこの子には幸せに育ってほしいと願っており、いくつか育児に関する本を読んだのだが、これがなかなか参考になる。

当然ベビーを育てるのにも役に立つのだが、普通に職場での人間関係にも有効活用できるんじゃないかと思うような考え方も多分に含まれている。

 

例えば、育児に関する本に

「子供話には耳を傾け、共感すること」

という考え方が書いてあった。

 

これは子供が話をした時に

①子供の話を最後まで聞く

②子供の話から、その経験からのその子の主張を言語化する

③子供が解決策を欲しているようなら一緒に考える

例えば子供が

「今日先生に、俺のほっぺにご飯粒がついていることを指摘されて最悪だった」

と言ったとする

それに対して

「それは恥ずかしいねえ。みんなの前で指摘しなくてもいいのにねえ」

と子供の言いたかったことを言語化する。裏に隠れた主張が見えないときは

「それは最悪だったねえ」

と繰り返すだけでも良い。

また、子供がもうこんな思いをしたくない、と言っているようなら

子供に何をすればこの事態が防げたか、子供と一緒に考える

ただ、改善を方法を大人から指摘するのではなくて、ヒントを与えるような形で子供が自分から発言できるようにすると良い

と言った内容だった。

これをやらないと、子供は親に対して「こいつに言っても理解してもらえねえから無駄だわ。もう言わねえわ」という気持ちになるらしい。全く妥当だと思ったのでいまだに覚えている

(逆にこれ以外の内容は忘れた)

 

そしてこの本を読んだ後に、全く関係ないモチベーションに関する本を読んだのだが、まさに似たようなことが書いてあって驚いた記憶がある。

 

ここで言いたいのは

「子供に適用できる考え方の中には、大人にも適用できるものがある」ということだけではない。そうではなくもう少し進んで「子供に対する理論が、大人に対する理論の土台になっている」ということだ。

子供はまだ大人に比べて特殊な要素が少ないより単純なモデルである。

逆に大人は子供が持つ一般性に、それぞれ大人ごとに特殊な要素が加わることでより複雑な振る舞いをすることになる。

 

例えば、会社の教育係に任命されたとして、めっちゃできる社員と下痢うんこクソ社員の2人を教育しないといけなくなったとする。

この時に考えるべきは

「できる社員に対する理論」と「下痢うんこクソ社員に対する理論」を別々に適用する、というよりも「両者に共通する理論」をまず適用して、その後にそれぞれ固有な部分を別々に適用するという方がより適切に対応できるだろう。

そしてその両者に共通する理論が「子供に対する理論」なのではないかと思っている。共通の理論を持ってまず接した方が大きな方向間違いになるということは起こりにくいはずである。

 

なので、先述した子供に対する「共感」に対する理論は、下痢うんこ社員にはもちろん、できる社員にも適用すべき一般的な理論なのだ。できるからといって話を聞かずにバンバン仕事を投げてもいいという「できる社員に対する理論」を、一般的な理論を無視して勝手に作ってはいけないのである。

 

というわけで育児は子供を育てるということ以上に色々学べることがあるので、本当に貴重な体験だと思っています。

浮気がバレた時に「寂しかったから」で乗り切れるか

よくドラマなどで彼女が浮気したことを彼氏に問い詰められて

「だって寂しかったんだもん」と釈明をしているシーンを見ることがある。

 

見てる側からしたら「何言ってんだこいつ」としか思えないが、本人からしてみれば許されるための決死の主張に違いない。今後の恋愛関係を継続できるか否かの瀬戸際なのである。

 

その決死さを汲んで、この主張を解析して、どのように理論づけをすればその場を乗り切れるか考えてみよう。暇だし。

 

まず彼女のを主張を分解して解析してみよう。

彼女の主張は「寂しかったから浮気してもしょうがなかった」である。

これは

①彼氏と接していると、ある要素(仮に「愛情」と呼ぼうか)が供給される

②「愛情」は、供給されないと時間と共に減少していく

③「愛情」の貯蓄料が、ある一定水準未満になると心身に支障をきたす

 (おそらくこの状態が「寂しい」ということになるだろう)

④当時彼女は「寂しい」状況にあり、かつ彼氏から「愛情」の供給を受けられない状況だった。

⑤よって他の男から緊急に「愛情」を摂取する必要があり、それを実施した

 

①〜③を前提に、当時の状況が④だから、⑤に至ったということである。

このようにして書いてみるとなんか納得できそうだから不思議である。

 

しかしこれでは彼氏は納得しないだろう。

それはなぜだろうか。理由はたくさんあるだろうが、大きなものの一つして「彼氏の権利を侵害しているのに、それに対する説明がないから」である。

 

一般に何かの目的を達成するために他者(ここでは自分以外の人間を指すことにする)の権利を侵害する場合には、

ア.その手段がその正当な目的を達成するために妥当である(行為の妥当性)

イ.他者の権利を侵害するだけの理由がある(侵害の妥当性)

この二つを示してあげないと納得は得られないだろう

 

今回のケースで言えば、「寂しかったのはわかったけど、浮気しなくても他の方法でもよかったじゃん。俺を傷つけてまで浮気しないといけなかったの?」と彼氏は思うだろう。

逆に誰かの権利を侵害していないのであれば、妥当性だけあれば良いと思われる。

例えば上司に「これなんでこういう方法でやったの?」と聞かれたときには上記アについて説明するだけで上司は納得するだろう。

 

話を戻すと、①から⑤の説明では、

「寂しい」という悪い状況が発生していて、浮気という手段がこの悪い状況を解決できるという妥当性は確かに説明できているが(アの説明)、浮気という権利侵害行為をするだけの理由があったか(イの説明)の説明がなされていないのだ。

なのでこの理由を考えて説明してあげる必要がある。

 

それには、例えば

「うさぎは淋しすぎると死んじゃうんだよ(だから私も死んじゃう)」

つまり淋しさに起因した死が差し迫っており、浮気という手段でしか死を回避できなかったとして緊急性を主張したり、

「みんな浮気くらいするし(だから浮気はそれほど悪い行為ではない」

つまり浮気という行為の違法性を下げ、相手が侵害された権利よりも淋しさを回避することによって得られる利益の方が大きいため妥当と主張したり、

「あなたが構ってくれないからだよ(浮気の原因を作ったのはあなただよ」

つまり、浮気という権利侵害行為そのものの重大性は認めるが、侵害行為の原因そのものを相手が引き起こしたして、それを持って侵害の理由があると主張するなどの論法があるだろう

 

このような主張をすることで、ただ寂しかったというよりもより説得力を持って相手を説得することができるだろう。

ただ、このように論理的に考えることによって、最終的に「浮気に正当な理由などない。私がしたことが誤りだった。」気づくことの方が多いような気がするので、その時は過ちを認め誠心誠意謝罪する方が良いだろう。

 

 

 

※筆者は法学部出身ではないので、ガバガバ論理です。法学的に不適当な論理が多数見えます。法学部出身やなんかそういうのに詳しい人は、子供がお遊戯会をやっているのを微笑ましく見るような目で見てください。

 

 

難しい本を読むための手段

本を読み終えた時には多かれ少なかれ達成感があるだろう。

そしてその本に含まれるページ数が多ければ多いほど、達成感も大きなものとなることに異論はあまり出ないだろう

 

また、本を読んでいるときに、同じ時間で読む本のページ数が多ければ多いほど、「ここまで読めた」と達成感が発生し、続きをもっと読もうというモチベーションにつながるだろう

しかしこれは逆に同じ時間で読んだページ数が少ない場合、「こんなに時間をかけたのにこれだけしか読めてないのか」とネガティブな感情を持ってしまうことになってしまうとも言える。その結果、「もう読むのやめるか」となってしまうこともある。

 

以上のことから、読んだページ数や、読めるスピードは本を完読するための重要な要素だといっていい。

本が難しければ難しいほど、読むスピードは落ちる。その結果モチベーションが下がる。特に難しい本を読んだときに、これは意識させられることだろう。

難しい本を読むモチベーションを維持するためには、何をすれば良いだろうか

 

そこでさっき思いついた方法がある。本質的な方法ではないが、個人的には有効であると思っている。

それは、「難しい本を読む時には、ページ数に重みをつける」という方法である。

難しい本を読んだ時には、1ページを5ページ分に変換するというイメージだ。

例えば難しい本を12ページ読んだら、普通の本の60ページに相当する、とみなすわけである。

(5ページ分の5という数字は特に意味はない。使う人の裁量で変えてもらって構わない)

これを受け入れることができれば、少ないページ数しか読めない本があっても、多く読んだという達成感を得ることがでできるのではないか。

 

いや、1ページは1ページだろ。5倍に換算って言っても実感出ねーし達成感なんか得られねーよという人もいるだろう。

そういう人は、実感を持たせるために以下のように考えてみてはいかがだろうか。

例えば、

ある人はAをいう事象について80%の知識が、Bという事象について20%の知識があるとする。裏返すと、Aについては20%わからない、Bについては80%わからないというである。

 

この人がAとBについて100%の知識を与える本を別々に読んだとする。

この場合この人は、Aについては20%の未知の情報と、Bについては80%の未知の情報と戦うことになるわけである。

よって、単純に比例的に換算すればBを理解するのにはAの4倍時間がかかるということになる。しかも実際にはこのような単純な比例関係ではなく、もっと比は大きくなるだろう。

だから、上記のことを裏返すと、「理解に時間がかかるということは、それだけ得られる情報が多い」ということなのだ。本から得た情報の量を記述するのに、「読んだページ数」より「読むのにかかった時間」の方が本質的と言えるのではないだろうか(言い過ぎかも)

少なくとも、読んだページ数というのは、それほど絶対的な指標ではなく、可変的に捉えるべきと言えるだろう。だから、ページ数に重みをつけるという方法は、うまく換算するページ数を設定できれば、有効な方法だと言ってもいいのではないだろうか。

 

まだ実践したことがないで、やってみてクソだったらこの日記消します

よろしくお願いします。

インタビューの必要性

AVには女優のインタビューシーンがあるものが多い

しかし巷では、「インタビューシーンは不要」という意見が多く聞かれる。

 

私から言わせれば、そのような人は何も分かっていない。浅すぎる。

「酒を飲むのにつまみなんていらねーよ」と言っているようなものだ。

確かにつまみがなくても酒は飲めるし酔うことはできるだろう、しかし本当の酒のうまさ・満足感はつまみと酒の調和によってのみもたらされるはずだ。

 

ではなぜインタビューシーンを見る必要があるのか。

理由としては「情報の特殊性を高め、過去に消費した情報と差別化を図れるから」である。

抽象的すぎるので、具体的に説明したい。

 

まず、前提として、一回使った おかずは2回目以降は効用が下がる。

逆にいうと、「おかずは未使用の状態が一番価値が高い」

これは前提として受け入れていただきたい。

 

通常我々は小学生高学年か中学生くらいに始めてえっちな本なり動画なりに触れるだろう。その時を思い出して欲しいが、女性の裸を見ただけで興奮したのではないだろうか。

最初はエロ本で、次にビデオになって、次に高画質になって、などと段階を踏んで言ったはずだ。ただどの段階でも初めはめちゃめちゃ興奮したのではないか。

 

例えば①エロ本 →② 動画 と遷移していったとする

 

①の段階ではそもそもざっくりと「女性の裸」という情報を全く未経験であったため、静止画でもめちゃめちゃ興奮するのである。

エロ本に飽きて、②で動画を見た時もまた、とんでもなく興奮するはずだ。

同じ女性の裸という情報を消費しているにもかかわらず、②ではなぜまた新たに興奮することになるのか。それは使用している情報が違うと脳が判断するからである。

 

まず①の段階においては「女性の裸」という非常に解像度の低い情報で満足しているのだ。極端な話、裸であればなんでも良いという状態である。

しかしこれを見続けると段々飽きが来る。これは「女性の裸」という情報が消費されたことで、段々価値を感じなくなってきたのである。

 

②の段階で再び興奮するようになるのはなぜか

それは「動いている女性の裸」という新しい情報をもらったからだ。

今まで漠然とと「女性の裸」として消費していたにすぎないものが、「動く」という付加価値を持って、別の情報となり価値となり興奮をもたらすのだ。

 

つまり、情報の解像度を上げる(情報の数を増やす)と、今まで消費した情報と別のものと脳が見なして、効用を高めることができるのである。

 

しかし②も続けていると「動画の女性」という情報を消費したことで、それに対する効用は下がっていく。

 

今度は例えば「綺麗な女性」の動画を見つけたとする。やはりこれも新しい情報となるので、効用を高くして消費することができる。しかしすぐにまた「綺麗な女性」という情報として消費されていけば、すぐに効用が下がっていくことだろう。

 

また、質を変えなくも量を変えれば、新しい情報として効用を得ることができるということが注意に値する。

例えば、「女教師」という情報を消費し尽くしたとして、新しい効用を得るためには「アクメ自転車」にいく(質を変える)のでも良いが、「メガネ女教師」(量を増やす)でも良いのである。

 

このメカニズムを知ってか知らずか、我々は多種多様な情報を消費していき、何年もかけて気づけばあらゆる情報を消費して、新鮮・未経験の情報を得ることができなくなっていくのである。

この段階になると、もはや良いおかずとは、自分が触れたことない情報(もちろん必要条件であって十分条件ではないが)であるかどうか、ということになる。

 

ここで力を発揮するのが「インタビュー」である。

インタビューはその女優に対して断片的でない連続的で生きた情報を与えてくれるのである。インタビューで得た情報は情報量が多く、それだけ過去に見たものと差別化を図りやすい。

 

これは実際にインタビューを見た場合と見ない場合を想像して見ると理解しやすいだろう。いかにイメージをして比較を行う

 

まず、インタビューを見ない場合は概ね下記のようになるだろう。

「ああ、このタイプの顔ね。スタイルはこんな感じか、服装はこんな感じで、シチュエーションはこうか」、大体多くても5、6個くらいの情報しかない。これではおそらく今まで消費した情報に中に該当したものが存在し、低い効用での消費なってしまうだろう

 

これがインタビューを受けることによって

上記に加えて、生い立ち、性格、今日何食べた、好きな本は、遊びに行くならどこに行くの、またこういった断片的な情報だけでなく女優のリアクション、癖など、動画の中で連続して有機的な情報等も得ることができる。

 

インタビューをちゃんと見ない場合、ぱっと見た断続的な数個のカテゴリとしての情報しか与えられないの対し、インタビューを見た場合は、例えば20分インタビューを見たら20分の動画の中に連続的に存在する情報、つまるところその女優そのものの人間として情報を取得するのである。

おそらく後者で得た情報を全て持つ動画というものは、過去に消費していないはずである。同じ人間は2人いなのだから。

 

よって趣旨としては、インタビューを見ることによって女優の人間そのものの情報を得ることとなり、過去に消費した情報のどれとも一致しない新しい情報として、高い効用を得ることができるということである。だからインタビューは飛ばさずに見てほしい

 

 

 

何を書いているんだ俺は